M.M 春のうらら


<自分自身の18歳を懐かしみながらプレイして頂ければ、きっと忘れられない作品になると思います>

 この「春のうらら」という作品は同人サークルである「SEAWEST」で制作されたビジュアルノベルです。SEAWESTさんの作品をプレイするのは今作が初めてでして、大人制度によって自動的に大人になれるという設定に大変心が惹かれました。高校3年生という多感な時期、思春期の真っ只中でもありますので子供と大人の狭間でみんな悩みながらその時代を過ごしてきた事と思います。そんな自分自身の18歳を懐かしみながらプレイして頂ければきっと忘れられない作品になると思います。

 時は現代よりも未来の世界。大人制度によって18歳になると大人になる処置を受ける事が義務付けられた社会です。大人になるという事は自分の気持ちを抑えて他人の為に行動できるという事、その為この世界の日本では犯罪は殆ど起きておりません。素晴らしい社会でありながらも主人公である仲田春彦はこの制度が本当に正しいのか悩むことになります。そして春彦の誕生日は3/4です。クラスメイトの中で一番最後に大人になるという事です。それは自分が最後まで子供でいるという事、知っている人達がどんどん大人になっていく様子に大きく悩むことになります。

 自動的に大人になる事が出来る、非常に面白い設定だと思いました。私を含め全ての人が自分の「子供っぽさ」が原因で多くの失敗をしてきたと思います。時には頭を抱えてのたうち回りたくなるような失敗もあると思います。でも大人になればそんな失敗はなくなるのです。誰とでも友好的な人間関係を築けるのです。それは間違いなく素晴らしいこと。でもそれは同時に自分の感情を極端に制限して他人の為に生きるという事です。生きるとは何か、感情とは何か、幸せとは何か、この作品を通して多くの事を考える切っ掛けになると思います。

 最大の魅力はもう言わずもがな、主人公を含めクラスメイト達の心理描写です。徐々に自分の誕生日が近づいていく中で膨らんでいく大人になる事の不安、それを誤魔化すために子供っぽく振舞ったり大人の真似事をしてみたりとリアルな行動が印象的でした。そしてやはり大人になった時のギャップですね。昨日まで自分の感情を抑えられずに悩んでいたクラスメイトが突然思慮深くなっているんです。これを見た主人公やクラスメイトの心のザワめきは必見です。是非自分だったらどう行動するのかを考えながらプレイして頂きたいですね。

 プレイ時間は私で3時間30分掛かりました。この作品は第一章から第四章まであり、それぞれ1時間程度で読む事が出来ます。それぞれが春、夏、秋、冬と季節ごとに分かれており、高校三年生の最後の1年を一通り過ごすシナリオになっております。加えて春は桜の舞う描写、冬であれば雪が舞う描写など演出面でも「おっ!」と思う場面が多々見られます。特にBGMや効果音の使い方は場面に大変あっており、シナリオ進行に合わせてプレイヤーの感情を高ぶらせてくれます。人によっては劇薬になるかも知れないシナリオですが、是非大人になる事と子供でいる事について考えて頂ければと思います。


→Game Review
→Main


以下はネタバレです。見たくない方は避難して下さい。








































<私が言いたいのは「大人になる事」ではなく「子供だった事を懐かしめない事」が寂しく悔しいという事>



「ごめんね、私、子供だった」


 …このセリフ1つでそれまで抱いていた気持ちの強さや悩み、苦しみ、愛情などの感情が整理できてしまうなんて、正直私には耐えられませんでした。人間の魅力って、やっぱり感情だと思うんです。この人はこんな事を思ってるから自分とは合うな合わないな、こんな気持ちを持っている人はこの人しかいないしこれこそがこの人らしさなんだな、激情的で正直マネは出来ないけどこれこそがこの人の個性なんだな、って人を区別すると思うんです。それが全てフィルターを通されて理性で抑えられて全員が利他的になってしまったら、主人公のセリフではないですけど生きる意味ってなんなのでしょう、幸せってなんなのでしょう、楽しさや悲しさ、悔しさって何なのでしょうって思ってしまいます。人を動かすのは人の想いの強さ、方向性は様々でしょうけど大きさこそが魅力だと思っております。とまあ、こんな事を思っている時点で私も子供なんですね。春のうららでは大人になる処置で一瞬で大人になるのでそのギャップが目立ってますが、現実世界でも遅かれ早かれ大人になっていきます。それが突然か少しずつかの違いで、それ自体は別にしょうがない事だと思っております。私が言いたい事は、そんな風に大人になる事の侘しさではなく大人になる前の子供だった時の感情を忘れてしまう事が本当の意味で寂しいという事です。

 第四章最後、春彦が旅に出る直前につぐみに主人公は「あの時の留守電の気持ち、まだ君の中にあるの?」と問いかけました。それに対してつぐみは「わからない」と言ったのです。私の予想ではきっとつぐみならば「あるよ。でもあの時は子供だったから恥ずかしいね」くらいの事を言うと思ってました。ですがそれすら無く「わからない」と答えたのです。これってつまり、感情の昂ぶりを理解しつつ理性で抑えている訳ではないんです。もう感情の昂ぶりすら抑えられているんです。そう思った瞬間私は思いました。ああ、大人になる処置を受ける前のつぐみと後のつぐみはやっぱり別人なんだなと。もう目の前のつぐみは別人なんです。大人になるとかそういう事関係なしに別人なんです。ではどう接すればいいのか、自分の気持ちに区切りをつけるまで離れるしかありません。だから春彦は旅に出る決断をしたのだと思います。

 愛しい人が変わってしまう姿は見るに堪えない、知っていたものが変わってしまう様子は見るに堪えない、これは私も未だに克服できていない感情です。話は変わりますが、私は高校卒業と同時に故郷を離れました。大学・大学院・社会人と地元ではない土地で生活しております。ですがたまには帰省して故郷の姿を見るのですが、思ったよりも変化しているんですね。その変化に驚きつつ過去の景色を懐かしむのですが、同時に自分の知っている景色はもう戻らないんだなって寂しくなるんです。否応なく時は流れますので変わらないものはありません。それは事実であり受け入れるしかないんですけど、やっぱり寂しいものは寂しいんです。ではそんな寂しさを払拭するには自分で乗り越えるしかないんでしょうか、それだけではありません。そんな過去を知っている人と思い出話をして共に思い出として昇華していく事で解消出来ると思います。

 同窓会という物が定期的に開催される理由って、きっとこれなんだと思います。自分の現在の地位を見せびらかしたいとか結婚報告をしたいとか、そういうのは実際のところ二の次でやっぱり同じ過去を共有した人達と思い出話をして二度と帰る事が出来ない過去を懐かしむのだと思います。例え体は成長しても立場が全然違っていても想いが変化していても、過去を一緒に過ごした事実は変わりません。その時の想い、記憶、感情が残っていればそれで良いんです。私のように心が弱い人にはそうやってしか過去を克服できないんです。

 だからつぐみが「わからない」と言った瞬間に、もう過去のつぐみと子供の頃を懐かしむことが出来ない事がハッキリしてしまったんです。溢れ出る感情をどう整理すればいいか分からなくて留守電にぶつけた想いの強さ、例え大人になってそんな行動はしなくなったとしてもこの時の記憶を懐かしむ事は出来ると思っていました。ですがそれすら叶わないんです。この瞬間、きっと私だったら悔しくて寂しくて泣いていたと思います。春彦の旅は間違いなく茨の道、大人だらけの世界で唯一子供である春彦の気持ちを理解してくれる人はきっといないと思います。それでも旅に出る決断をした春彦、よくもまあ投げやりにならず前に進めたと思います。果たして春彦はつぐみへの想いを整理できるのか、そして大人になっていくのか、それとも海外へ移住するのか、後は春彦の心の持ち方1つですね。

 結局のところ私が言いたかったのは「変わってしまった事」ではなく「変わってしまった事を懐かしめない事」が寂しく悔しいという事です。特に感情というものは形に残りませんので形に残すか思い出すしかありません。そしてつぐみの場合は留守電という形で残りました。でも、その留守電を聴き直してもその時の感情が懐かしめないんです。これって凄く寂しい事だと思います。人との思い出はその人とどういう感情を共有したかという事です。たとえ真実は違っていたとしてもお互いがその時の事を懐かしめるからこそ思い出になるんです。それが出来ないとなった瞬間、その人との思い出はないんです。それってもう他人って事。これは寂しく悔しい事だと思います。大人になりたければ大人になればいいんです。それで多少性格が変わってしまえど過去の思い出があればきっとまた今まで通りの人間関係が築けるんです。それが出来ないのは余りにも寂しいと思います。

 …さっきから何回同じ事を書いてるんでしょうね。恥ずかしいですね。見苦しいですね。こんな私こそさっさと大人になってもっと客観的な視点でレビューを書かなければいけないのにですね。でもこれ程までに私にとって劇薬になった作品はありませんでした。分かりやすいテーマに直球な感情のぶつかり合い、それが私に会心の一撃としてぶつかっただけです。私にとってあまりにも救いのないシナリオ、重すぎるテーマ、二度とプレイする事はないと思います。でも忘れません。忘れたら、それこそ大人になる処置を受けた人達と同じになってしまいますからね。絶対に忘れません。寂しくて悔しくても絶対に忘れません。過去の自分を忘れるくらいなら、私は子供で有り続けたい。そんな事を思いました。


→Game Review
→Main


以下は上記のレビューを書いてから1日経過してから追記した内容です。
「大人制度」に対する私の回答を書いております。








































<成長や経験は大人になる為に欠かすことの出来ない要素。それを持っていない人は絶対に大人ではない>

 …上記のレビューを書いて一応この「春のうらら」という作品に自分なりの決着を付けたと思っていたのですが、実はその後も心臓のドクドクが止むことはなく言葉にし難い焦燥に駆られていました。今日も仕事をしながらどうして大人制度というあんな寂しく悔しい制度があるのだろうという想いが頭の中をグルグル回っていました。ずっと考えていました。大人制度とは何か、感情とは何か、そもそも大人とは何か。そして今日仕事を終えて事務所で雑談をしている時にようやくその答えにたどり着く事が出来た気がしました。以下はその答えを書くと共に、私なりの「大人制度」に対する回答を書こうと思います。

 第三章の10/16、安岡紀子は愛しの親友である三保が大人になってしまった事に絶望し自分の心の価値について必死に訴えてました。その想いは留まる事なく、かつての親友である三保に向かいました。「私の三保ちゃんは、どこへ消えたのっ!?」と。それに対して大人になった三保は何と言ったでしょうか。「私は私よ、だから少し落ち着きなさい」。とてもクラスメイトに言うようなセリフではありませんね。結果紀子はその言葉にさらに絶望し、精神のバランスを崩してしまいます。この時既に大人となったクラスメイトは紀子に何が出来たでしょうか。ただ見守るだけでした。誰も紀子の求める答えを言えなかったのです。これが大人でしょうか。かつて子供だった経験を持っているなら、その経験を持って大人として紀子の事を救えるはずです。ですがそれを誰ひとり出来ませんでした。三保も出来ませんでした。この時私は思いました。大人になる処置は決して大人になる事ではない。唯、感情の起伏を無くした人間のようなものになる為の処置であると。

 大人になる処置とは情動を生む脳の機能を下げる処置です。現代よりも医学が進歩したことで、脳の構造の研究が進歩したからこそ出来た処置だと思います。ですがそれは自然体の体にメスを入れる行為、現代の整形手術と同じだと思います。確かに整形を行えば美しくなれると思います。それで幸せになった人もいると思います。ですが、整形手術をしたという事実を聞いたとき、その人に対してどのような感情を抱くでしょうか。例えば、美しい花が咲いていると思ったらそれが造花だと気づいたとき、その花にどのような想いを抱くでしょうか。きっとその時その時を懸命に生きている花だからこそ美しいと思うのだと思います。ですが造花は永遠に美しい代わりに生きてはおりません。そんな造花に、愛情を持つでしょうか。整形手術をして外見的に美しくなっても、内面が美しくない人を美しいとは言わないと思います。それならばマネキンで十分です。こう思ったとき、大人になる処置で大人になった人は決して尊敬の対象にはならないと思いました。

 何の努力も苦悩もしなくても自動的に大人になる事が出来る、本当夢のような事だと思います。挫折も苦しみも味わう事なく他者を労わる気持ちを持てたら、そんな楽なことはありません。ですがその労わる言葉にどんな説得力があるでしょうか。唯心のザワめきが無くなり冷静になっただけです。冷静になってそこからどんな言葉を紡ぎ出すのでしょうか。成長や経験もない人がただ冷静になっただけで、相手に何を言えるのでしょうか。その結果が第三章の10/16の景色だと思います。大人になったクラスメイトたちは紀子の激情に何も出来ず、ただ見守るだけでした。そんな事、実際子供でもできます。本当の大人だったら紀子の気持ちを理解して紀子の気持ちに寄り添ってあげる事が出来るはずです。それが出来ないのは、成長も経験も味わっていないからだと思います。

 今日仕事を終えて雑談しているときに気づいたことがこれでした。人は経験をして大人になっていくという事です。まだ経験の浅い後輩たちは仕事の進め方や気配りの仕方が分からず空回りしてました。私もかつて通った道です。そんな光景を見て先輩が「あれも経験積めば幾らかマシになるでしょ」と呟いてました。本当その通りだと思います。今は何も分からなくて感情ばかり先立ってますけど、経験を積んで成長すれば落ち着きを持ち冷静に対処出来ます。そして少しずつ社会人として成熟していくんです。この過程は子供が大人になると同じ。自動的に大人になるなんて、有り得ないんです。

 春彦は大人になる決断を保留して旅に出ました。そしてそんな姿をみた大人のクラスメイト達は「無駄なことだ」と思ってました。それでも利他的な人達ですので決して春彦を貶すことなく応援しました。そんな様子を見て、私は当初いつか春彦も色々と諦めて楽になるために大人になる処置を受けるのだろうと思いました。でも、実はまだ日本にも大人になる処置を受けていない18歳以上の人が居るかも知れません。そんな人達と出会えたとき、そしてそんな人達と切磋琢磨して足掻いたとき、きっと春彦は本当の大人になる事が出来るのかも知れません。これは完全な仮定ですしあまりにも確率が低い希望的観測です。ですがかつて全ての子供が大人になる処置に恐怖を覚えていました。きっと春彦のような決断をした人は他にもいる気がします。

 後はこの大人になる処置は決して100%安全な処置ではないという事も忘れてはいけません。第四章で拓真が「自分の感情が薄い膜を通して伝わるような感覚」と言ってました、この膜のバランスが上手く行かなかったとき、つぐみの兄のようになるのだろうと思います。つぐみの兄は大人になる処置に失敗し、情動が全く無くなってしまいました。何も思わず何も感じない、きっと本人も自分が何者なのか考えられないのだろうと思います。こんな姿、人間と呼べるでしょうか。これが大人でしょうか。大人になる処置を受けるということは少なからず人間らしさを削るという事、そして自分の削られた人間らしさに何も疑問を持たないという事、人間らしさを持っている子供を理解できないという事、もうそれはやはり人間とは呼べない人間のようなものなのだと思います。

 という訳で色々と書き下しましたが、一番言いたかったことはタイトルの通り「成長や経験は大人になる為に欠かすことの出来ない要素。それを持っていない人は絶対に大人ではない。」です。大人になるという事はそれなりの経験を持っているという事、ただ感情を削って冷静になる事は決して大人ではありません。人間としての深み、温かみ、情愛、それは経験を積み成長できた大人でしか出すことが出来ない物だと信じております。そして大人制度というものを考えた人がいるという事実、大人になる処置がまだ完全な技術ではない事実があります。春彦が付けるとしたらここです。この小さな穴をつついた時、もしかしたら大人制度を覆すことが出来るかも知れません。春彦の旅は決してただの悪あがきではない。いつか大人制度の秘密を暴き本当の意味で大人になる事が出来るよう願っております。これが、プレイ後1日頭を悩ませてたどり着いた答えです。ここまで読んで下さった方々、本当にありがとうございました。


→Game Review
→Main

inserted by FC2 system