M.M ef - the latter tale.


 この「ef - the latter tale.」は前作である「ef - the first tale.」の続編となっております。なので、この「ef - the latter tale.」のネタバレ有り・ネタバレ無し双方のレビューに「ef - the first tale.」のネタバレが含まれていますので、「ef - the first tale.」のネタバレを避けたい方は避難して下さい。


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<群像劇の特性を最大限に生かした名作>

 この「ef - the latter tale.」は、上でも言いました通りminoriから発表された「ef - a fairy tale of the two.」の後編として発売された物です。前作である「ef - the first tale.」の人物表現の丁寧な語り口と無数に張り巡らされた伏線の数々を回収するべく意気込んでプレイしました。結果として、そのクオリティに負けない真の通ったテーマに心を打たれるものがありました。

 「ef - the first tale.」のテーマはずばり「成長」だと今でも言い切れますが、一口に成長と言っても様々あるわけです。その中でも「ef - the first tale.」の成長はだいだいは「後向きな自分に見切りをつけて前に進む」ものだと認識しています。そしてこれは後編である「ef - the latter tale.」にも通じるものがありました。

 群像劇ですので「ef - the first tale.」と「ef - the latter tale.」で登場人物がガラリと変わるのは当たり前です。ですが、「音羽」という町を舞台にした物語であることは共通です。そしてそれは、音羽に起きた震災という事実も共通であるという事も意味しています。「ef - the first tale.」ではこの震災という事について大きく触れることはありませんでしたが、後編である「ef - the latter tale.」ではこの部分がモロに関係しているシナリオになっています。そして、上でも言いました通り「ef - the first tale.」のテーマを「成長」としましたが、この「ef - the latter tale.」でもその「成長」というテーマを新しい視点で表現しています。

 そして、同じテーマを新しい視点で見せるという意味で「群像劇」はまさにうってつけの手法だと思います。主人公が一人で多数のヒロインとシナリオが分岐する「マルチエンディングシステム」はもはやこの業界では一般的なものであり、これでも個々のシナリオを変化させる事で共通のテーマを別の視点で表現することは可能です。ですが、主人公が共通であるという以上設定などを大きく変更するのは難しく、どこかマンネリになってしまう点は回避できません。その点「群像劇」は主人公が変わるので当然日常生活も変わり、全く新しいシナリオとしてプレイヤーに認識されること間違いなしです。まして、「ef - the first tale.」で見せた「別の主人公とヒロインの物語をそのままにして時間だけが進行して新しい主人公とヒロインの物語が始まる」スタイルの群像劇は殆ど見た事が無く、前章の内容を引き継いでいる分プレイヤーは本当の意味で新しくシナリオに没頭出来る訳です。

 そして、この「ef - the latter tale.」のシナリオそのものですが正直言って半端ありません。「ef - the latter tale.」で少しでも後編に期待を持った方なら間違いなく後悔しない内容になっています。数々の伏線の回収の仕方、私が最も疑問に思った「雨宮優子」の謎、そして震災がもたらした「物語」と「成長」、それらの要素を見事に一つのゴールへ導いてそのテーマをクッキリと表現したシナリオは感動以外の何物もありません。間違いなく2008年を代表する作品です。「ef - the latter tale.」をレビュー待ちしている人がいたらハッキリ言えます。これは当たりです。早速「ef - the first tale.」から始めましょう。


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以下はネタバレです。見たくない方は避難して下さい。








































<失ったものはかえってこない、それでも人は「夢」を持つ事で「成長」出来る>

 全てのシナリオを終えて、とりあえずこのエンディングは「ハッピーエンド」なのか「バッドエンド」なのかを考えようと思いました。ですが、そんな発想自体が実は陳腐な事だなとすぐに気付きました。

 この物語のテーマを一言で言いますとそれはやはり「成長」です。ですが、もう少し掘り下げて言いますとタイトル通り「失ったものはかえってこない、それでも人は「夢」を持つ事で「成長」出来る」だと思っています。そしてこの事は、一人一人の人間関係という枠組みから広がって、かつて震災で崩壊した「音羽」の町全体に広がって行きました。

 震災によって家族を失い一人身になった子供達は、その出来事から離れられずずっと引きずったまま未来に進めずにいました。それでも、本当は新しく人の持つ温もりや優しさを求めて不器用ながらも心を通わせていきます。では、そうやって新しく築いた絆が再び失われる事になって、それでも人はそういった人の持つ温もりや優しさを信じようとするのでしょうか。答えは「Yes.」です。なぜなら、彼らは一度自分が信じた人との繋がりによってこれ以上ない幸せを手にいれることが出来たからです。そして、それを忘れない限り途中足踏みをしても彼らは再び進む事が出来ます。

 「ef - the latter tale.」での各章に共通している事として、主人公かヒロインかどちらかが「自分の力ではいかんともし難い障害」を抱えている点があります。それでも、彼ら彼女らはその障害を自分を愛してくれるパートナーの力によって克服し幸せを掴んだかのように見えました。ですが、彼ら彼女らは一度掴んだはず幸せを手放してしまいます。その理由は彼ら彼女らが「夢」を持っていなかった事、とにかく行動してきた彼ら彼女らがその目的を果たした時に大切なものを見失ってしまったのです。だからこそ、その後自分が本当に大切な物、すなわち「夢」を取り戻す事によって悠久の幸せを手に入れる事が出来た訳です。

 そして、この過程はまさに「音羽」の街その物に言えることです。一度は震災によって壊滅した「音羽」ですが、人々の手によって再び蘇ります。ですが、その中で生きている人の中にはやはりまだ幸せになれない人もいる訳で、そういう意味では完全に復興したとは言い難いです。ですが、その彼らが月日が流れる中で失った人に別れを告げて未来に向かって進む力を得ることで、本当の意味で音羽は蘇るのです。その象徴が「もう一つの音羽」だと思っています。

 と、こんな感じで「成長」していった彼らですが、シナリオ自体に「甘え」は全然ありませんでしたね。こういう惨酷な設定にはよく「奇跡」の要素が付きまとう物ですが、この「ef - a fairy tale of the two.」はそういった要素は殆どなく登場キャラクターの誰もが悩み苦しみ葛藤する事で「成長」していきます。だからかも知れません、私がこのシナリオに非常に共感し100点を付けたのは。

 それでは次に伏線について考えてみようと思います。「ef - the first tale.」をやり終えた後で私は「雨宮優子」と「火村夕」についてある種の人を超えた何かを感じていましたが、まさかこんな形で物語が紡がれていくとは思いもしませんでした。過去編とでも言えるシナリオこそがこの「ef - a fairy tale of the two.」のスタートでありゴールだったなんてそうそう気づけるものではありません。ましてやそこに一般ヒロインと思われていた「羽山ミズキ」が大きく関わっていたなんて容易に分かることではないと思いました。そして、何と言っても最大の伏線は「二つの音羽」だったと思います。途中確かに「ef - the first tale.」と「ef - the latter tale.」の登場人物の会話の中でどこか噛みあわない部分があるなとは思っていましたが、なるほどこういう事だったのですね。驚きと共に、音羽とそこに住む人達が本当の意味で幸せになれたんだなと実感出来て本当に嬉しかったです。ちなみに全てのシナリオを終えてから再度「ef - the first tale.」と「ef - the latter tale.」のOPムービーを見てみてください。「紙飛行機」や「階段」のシーンで殆どの人は「ゾッ!」とするでしょう。ここまで巧みに伏線を張っているなんて、「minori」と言いますか「御影」と言いますか非常によく考えられているなと思いました。

 とまあよくまとまらない感想になってしまいましたが、久しぶりにテーマに一貫したシナリオに合うことが出来ました。長かった「ef - a fairy tale of the two.」の世界、私もこの世界にいつまでもひたらず新しい道に進んでいかなければと強く思いました。



(追記)



 これ程までに奇跡の要素を排除した「ef - a fairy tale of the two.」ですが、唯一奇跡の要素を盛り込んだのが他ならぬ「雨宮優子の存在」だというのがズルい設定ですね。ですが、雨宮優子が火村夕と再開できた奇跡は決して偶然ではありませんでした。なぜなら、それぞれのシナリオに登場するヒロイン全てが「夢」を持ち「行動した」事が二人の再開を可能にしたのだからです。「新藤景」が雨宮優子の話題を「新藤千尋」にメールしたのは他ならぬ「宮村みやこ」が新藤景を叱咤激励した事が切欠です。宮村みやこが自身の停滞していた生活を前向きな物にする様子を新藤景が見る事で、新藤景も過去に縛られていた自分から脱却出来たのです。また、「新藤景」が「新藤千尋」に送ったメールが「羽山ミズキ」に渡ったのは、新藤千尋自身も新しく麻生蓮治との関係と築いていこうという思いが切欠でした。そして「羽山ミズキ」も一度は久瀬修一に裏切られますが自分の信念を信じる事で雨宮優子に花束を贈る切欠となったのです。そんな、各ヒロインが前に進もうとした行動の積み重ねが「雨宮優子」と「火村夕」の再開を実現させたのです。二人が再開できたのは確かに奇跡によるものなのですが、この奇跡を生んだのが前に進もうとする人の行動から来るものだったという事実に気づいた時、この「ef - a fairy tale of the two.」はなんと厳しくて優しい物語なんだと感動しました。確かに現実には奇跡なんてそう起こりません。でも、この物語の唯一の犠牲者でもある雨宮優子の最後の願いくらい適ってもいいかなと思っていました。そしてそれがこのような「偶然ではない必然の奇跡」で実現された瞬間、この物語は本当の意味で完結出来たんだなぁと思いました。


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以下は更なるネタバレです。
「CLANNAD」をプレイし終え、私のネタバレレビューを読んだ方のみサポートしています。
それ以外の方には「CLANNAD」のネタバレになりますので、見たくない方は避難して下さい。








































<「奇跡」を排除することで得られる本当の「人生」>

 全てのシナリオを終えて、どこかで同じようなシナリオを見た事があるなぁと思っていたのですが、その答えがつい先程分かりました。それは「CLANNAD」の「汐End」でした。

 「汐End」は、渚が汐を出産した後死んでしまいその後朋也が本当に大切な物(家族を愛する心)を手に入れる物語でしたが、これは「CLANNAD」の真のエンディングではありません。真のエンディングは町の力による「奇跡」によって渚が新しい命を生み出す力を手にいれ家族全員で幸せな生活を営む「渚End」でした。確かにこちらの方が誰も悲しまずに全員が幸せになれるので後味は良いのでしょうが、奇跡という要素を持ち込んだためどこか「甘い」印象を持ったことも事実です。そしてこの「汐End」と「渚End」について、今回「ef - the latter tale.」を終えた事が私に改めて考えさせられる切欠となりました。

 最近「CLANNADは人生」という格言をよく耳にしますが、これは「CLANNAD」の「After Story」が朋也と渚の生活を非常に細かく描いた物だったからこそついた格言だと思います。言わば「CLANNAD」は「事実を細かく淡々と書いた」」ことによって人生と呼ばれる事になったのだろうと思います。確かに人生と呼ばれるに相応しいボリュームである事は事実ですし私もとやかく言うつもりはありませんが、先に書いた「奇跡」の要素の為に人生を名乗るにはどこか「甘い」印象もありました。

 これに対して私は、この「ef - a fairy tale of the two.」も「人生」の称号を得ても良いと思っています。むしろ「CLANNAD」よりもずっとシックリくると思っています。その理由は、「火村夕」という人間の「心の葛藤」を「奇跡を用いず」に学生時代から社会人になるまで細かく描いたシナリオだからです。

 具体的すぎる「CLANNAD」のシナリオと比べると確かに「ef - a fairy tale of the two.」の方が抽象的な印象があります。ですが、そんな「ef - the fairy tale of the two.」が完全に「CLANNAD」に勝っている点があります。それは「心の描写の細かさ」です。「火村夕」がバイトをしたり将来デザイナーになる為に勉強する様子は、確かに「事実としての細かさ」では特に目を引く物はありませんが、その代りであるかのように「心の表現としての細かさ」を沢山用いています。そして、私の中ではこの「心の葛藤における成長」こそが「人生」だと感じてしまいました。

 そして何より、この「ef - a fairy tale of the two.」には「奇跡を期待できる甘さ」がありません。これは私達が生きているこの「人生」にそっくりそのまま当てはまる事でもあります。だからなのでしょう、私がこの「ef - a fairy tale of the two.」を終えた後に「CLANNAD」の「渚End」シナリオを「甘い」と感じたのは。

 そういう意味で、私は「CLANNAD」の「汐End」を最も評価しています。汐Endは奇跡なんか起きずに最愛の人である渚が死んでしまいます。その事はもちろん悲しい事ですが、その悲しさがあるからこそ朋也が汐を受け入れたシーンがグッと心に響いたのだと思います。「ef - a fairy tale of the two.」の心の描き方は間違いなく素晴らしいのですが、一シナリオとしてはやはりこの「汐End」が「人生」的に一番です。

 という訳で、「CLANNADは人生」という格言が本当の意味で生きるのは「汐End」だけだと思っています。そして、この「汐End」と「ef - a fairy tale of the two.」の共通点として挙げられる事は「奇跡」を排除することだと思っています。「奇跡」を排除し現実をトコトン突き詰める事によって本当の意味で「人生」の称号が得られるのだと思います。

 だからと言って「CLANNAD」のその他のシナリオに感動しない訳ではありませんよ。「CLANNADは人生」という格言が一人歩きしている様に感じたのでここいらで一筆書いてみようと思っただけです。どちらも神作であることに変わりはありませんからね。


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